アリとキリギリス、本来はアリとセミらしいです。知ってました?
私の敬愛するpodcast番組「今日も畳の目を数える」にて、アリとキリギリスの話をしている回があるんですね。そこで話していたアリとキリギリスの解釈がとても面白かったんです。
まず、もともとのお話の展開が日本のものとは違います。
冬のある日の事です。
アリたちは貯めてあった穀物が湿ったので、家の外で乾かしていました。
そこへ、お腹を空かしたセミがやって来て、「何か、食べ物を下さい」と、頼みました。
「あなたは、どうして夏の間に、食べ物を蓄えておかなかったのですか?」
「ひまがなかったのです。きれいな歌を歌うのに忙しくて」
アリたちは、せせら笑って言いました。
「なるほどね。しかし、夏の間、歌を歌っていたのなら、冬は踊りでも踊ったらどうです」
おわり。
アリが嫌味なやつっぽい(笑)
日本ではアリのようにしっかり働こうねという教訓が一般的ですが、番組ではこれは芸術の在り方を問う話にもとれるのではないかと話していたのです。
聞いたのが少し前なので番組内で話していたのとはニュアンスがちょっと異なっているかもしれませんが、私の解釈も上乗せした感じでここに記しますね。
社会の中で、実益のあることだけやっていたら発展がないと思うんです。アリのように、生きるために一生懸命仕事をするのは大事だけど、セミのように文化・芸術や、基礎数学のような利益と直結していないものにも力を注ぐ人がいるから、世の中は豊かになるのだと思うんです。
セミは遊んでたわけではなく、「きれいな歌をうたって」いたわけですからね。
私は趣味で文化活動をしているだけなので、セミのようにはなれませんが、本気で美しい物や面白いことをみんなに届けようとしている芸術家や研究者がセミなのだとしたら、それはとても立派な在り方だと思います。
しかし、セミばかりでも社会は成り立ちません。アリのように働く人がいなかったら、みんな生きていけません。
アリが支えてくれるからセミが生きていけるし、セミがいるから豊かさが生まれる。お互いが敬意をはらいあうことで、成熟した人間社会が築けるかもしれない。
アリとセミは本来、そんな問題提起をしてくれているお話なのではないかなと感じました。
そして、やっぱり読み継がれるお話って深いな!すごいな!って勝手に思っています。